恋は雨上がりのように

恋は雨上がりのように

「女子高生」と「おじさん」は陰陽五行説でいうと相克の関係にあり、たとえばアフラ・マズダとアーリマン、バロンとランダ、美来斗利偉・拉麵男と屠殺鬼玉王のように永遠の闘争を宿命づけられた存在ですが、本作ではその相反する二者がほんの一瞬、わずかに近接することによってアウフヘーベンが起こり、そしてそれぞれがより高みへと向かうという、世にありうべからざる美しき物語です。もはや神話レベルといってよい。女子高校生が観ても多分に感じるものがあるだろうし、おじさんが観てもわが身に置き換えにやにやしてしまうであろうという、誰ひとり傷つかないwin-winな映画ですね。

ストーリーとしては映画も原作マンガ(途中までしか読んでませんが)もそんなに大きく変わらないのだと思いますが、前者にあって後者にないのは音楽によるブースト。本作は『菊次郎の夏』なみに音楽ブーストが強力な映画だと思います。

オープニングで小松奈々が「テレキャスター・ストライプ」に合わせてドリフトしながら疾走する場面はここ数年の邦画シーンにおいて特筆に値するものであり、はっきり言ってこの映画で一番の見どころでもあるので、現代を生きる多忙な社会人各位はとりあえず冒頭のドリフトシーンだけ観ておけば、「この映画を観た」と公然に宣言してもよいくらいです。なんの権限もないけど僕が許そう。

エンディング曲「フロントメモリー」も映画の主題にバッチリはまった名曲といえるでしょう。僕はこの曲が気に入ってかれこれ4億回くらい聴き込んでいるのですが、特に

急にアイスが食べたい真夏日
外はテカテカしてまぢあっちーし
扇風機に顔ぶんぶん当てては
カエルのようにこうなっちゃって
3時のかんじにもたれて
窓の外をもたれるたび
自分なんて分からなくなってきた

あたりの歌詞が大変素晴らしいと思うんですよね。
「カエルのようにこうなっちゃって」という、歌詞としては不親切なフレーズをリスナーにぶん投げる一種の暴力性。このようなスピード重視なリリックが曲の疾走感を更にブーストしている。

本文冒頭で「おじさんと女子高生が対立項」と述べたとき、皆さんの多くは女子高生=善/おじさん=悪、女子高生=光/おじさん=闇、のような対立関係、とにかくおじさんのほうが災禍をもたらす存在と思い浮かべたのではないでしょうか。しかし物事はそんなに単純ではなく、実は女子高生=混沌/おじさん=秩序という対立軸もありうる。真・女神転生的に表現するならばおじさんはDARK-LAW、女子高生はLIGTH-CHAOSということですね。しかるに上記の歌詞は女子高生のCHAOS属性を表現しており、その音楽の力は「女子高生がおじさんに恋い焦がれる」という荒唐無稽に説得力を付与しているとさえ思うのです。

まあ、何を言っているのかわからないと思いますが、僕もよくわかりませんがとにかく、おじさんはDARK-LAWで女子高生はLIGTH-CHAOS、今日は皆さんこれだけ覚えて帰ってくださいね。どうもありがとうございました。