大沢温泉を旅する(前編)

大沢温泉を旅する(前編)

あくまで仮定の話として、僕の身にこんなことが起きたとしましょう。

?「目覚めよ、ヒモロギよ」
僕「……」
?「目覚めるのだ……」
僕「……いや眠いし……」
?「……ヘイ、寝るんじゃない。起きるのだ。ヘイ、ユー」
僕「あなたは……とん平?」
神「左とん平ではない。神じゃ」
僕「あっ、そうなんですね。ヘイ・ユーとか言うから、『とん平のヘイ・ユー・ブルース』みたいだなと思って」
神「なんで左とん平がお前の枕元に立つんじゃ。よく考えよ」
僕「ワーワーうるさいな……寝起きなんだから仕方ないでしょ」


神「それよりもヒモロギよ。いま世の中が大変なことになっていることは知っておるな」
僕「はい、私も心を痛めております。『キン肉マン』の感想を述べただけで集英社から訴訟を起こされるリスクがあるなんて……そんなのあんまりです!」
神「そっちではない。新型コロナウイルスのほうじゃ」
僕「ああ、なるほど。そっちもけっこう大変でしたね」
神「そらもう大変じゃよ。特に大変なのが観光業じゃ」
僕「はあ」
神「政府の打ち出したGo Toトラベルも不発で、観光業はいよいよ厳しい状況となってきておる」
僕「異常事態が半年以上も続いていることで、彼らの運転資金もすりこぎのようにすり減り続けているのですね」
神「そのとおりじゃ」
僕「世の中はすりばちですね」
神「そういう側面もある」
僕「人生はすりこぎなんだよOH MY BABY! このブルースを聴いてくれ HEY YOU〜」
神「歌い出すではない。『とん平のヘイ・ユー・ブルース』のことは一旦忘れろ」
僕「はい」
神「このままでは、遠からず国内の観光業はすべて消滅する」
僕「えっ、まさかー。『四季報』にそんなこと書いてませんけど。間違いじゃないですか」
神「なんで神さまよりも四季報記者のほうが信頼度高いのよ。わしは未来とか見えるの!」
僕「そんな……僕の好きなあの温泉やあの温泉も消滅するというのですか。そんな残酷な話がありますか。生きる希望がないではありませんか。すり減って、みそをつけて、死んじまうんだ!」
神「落ち着け。それでは人類があまりに不憫につき、わしが例外的に温泉宿をひとつだけ救って後世に残そうと思う」
僕「ノアの方舟的なノリですね。神さまそういうの好きだな〜」
神「しかしわしは普段国内旅行とかしないし、どの温泉宿を残すべきか決めかねたので、全国民のなかから無作為ランダムに抽出したお前にどの宿を残すか一任しようと思う。任せたぞ」

僕「ははーっ」

となったとき、僕は果たして全国八百万の温泉宿のうちどの宿の名前を挙げると思いますか。僕は間違いなく「大沢温泉」の名を挙げることでしょう。……というくらいに僕はこの宿を深く愛しているのです。

「大沢温泉がめっちゃ好き」ということを伝えるためだけに膨大な字数を費やしてしまいましたが、とにかく2020年9月10日、僕は東京を離れ大沢温泉のある岩手県へと向かいました。

ちなみになぜこのタイミングで大沢温泉に出かけたかと言えば、割安感と感染リスクを秤にかけて今が一番よいと考えたからです。近く東京からのGo Toトラベルが認められれば観光地は今より混み合い感染リスクが増しますし、今ならJR東日本が自前で半額キャンペーンをやってくれています。大沢温泉に関していえば、はっきり言ってGo Toトラベルの恩恵なんか不要です。だって大沢温泉は一泊3000円ちょっとなんですから、そのくらいお国に立て替えてもらわずともじぶんで全額負担しますぜという話なんです。
したがいまして、東京からの交通費と宿泊費あわせて2泊で約20000円。しかも空いてる。いま行かずしていつ行くというのでしょうか。

というわけで9/10、東京駅から新幹線に乗りこみ、まずは盛岡に向かいます。
本当は途中の新花巻で降りたほうがよっぽど近いのですが、半額キャンペーンの絡みで一旦盛岡駅まで行かなくてはなりません。
盛岡駅近くの「駅前ももどり食堂」という、やたら鶏肉が旨い店で昼食を食べ、在来線とバスを乗り継ぎながらのんびり花巻方面に向かいます。

あ、そういえば、僕がなんで大沢温泉LOVEなのか説明していませんでしたね。
17年ほど前、大沢温泉の湯治屋(以前は「自炊部」という名称でした)で2ヶ月ほど生活していたことがあるんですよ。当時、花巻の富士大学で司書講習の集中講義があって、遠方からそれに参加する人たちはウイークリーマンションや寮に申し込むものなのですが、僕はそういう手続きを怠るあほだったので、温泉好きな講師の先生にアドバイスをもらい大沢温泉に住み込むことにしたのですね。おかげで「なんかへんな温泉から通ってくる人」としてクラス内でのキャラが立ちました。

当時はたしか、布団持ち込みで素泊り一泊1900円ぐらいだったと思います。安い……

安いだけでなく、そこでの生活は本当に最高でした。築二百年のノスタルジックな建物での昭和ライクな暮らし、自然と温泉の素晴らしさ、他の湯治客との交流など、すべてがよい思い出です。

というわけで僕は「17年前の大沢温泉」は間違いなくこの上なく大好きなのですが、果たしていまの大沢温泉はどうであろうか。僕の愛する昭和ノスタルジーな雰囲気が失われていたらどうしよう……そんな一抹の不安を抱えながら、15時過ぎに大沢温泉に到着しました。幸いにして門構えは昔とまったく変わっていませんでした。

体温チェックと手指消毒を済ませた後、宿の人に案内されて部屋へと向かいます。昔とどれほど変化があるのだろうか……とドキドキしていると、廊下であるものを見つけた僕は驚きのあまり悲鳴をあげました。
「ゲーーッ!」
いつもは冷静沈着、杉並のファイティング・コンピューターと異名を取るほどの僕の周章狼狽ぶりはいったいどうしたことでしょう。
僕ははたして、大沢温泉の廊下でなにを目にしたというのでしょうか。(続く)